スローダンス

スカイアイと、キスした。

あの夜、スカイアイの部屋で飲みながらどうでもいい話をしていた。いつもスカイアイはそうやって俺が眠くなるまで付き合ってくれるんだ。二人してそれなりに酒を飲んで、酔っぱらってた。
なんでキスなんかしたのか振り返ってみてもよくわからない。何となくそうなったとしか言えない。
スカイアイと俺は別に恋人でもなんでもなかった。友人――といってもいいのだろうか? 仕事上での大切なパートナーには違いない。
だからきっと、あのキスに大した意味なんてない。スカイアイも酔っていたんだ。
キスがしたい気分になったのかもしれない。俺にはよくわからないが。
だから大した意味なんてあるはずがない。そう自分に言い聞かせた。
だってスカイアイは次の日、いつも通りだった。
恥ずかしがったり戸惑ったり、気持ち悪がったり謝ったり。そんな、いつもと違う素振りはまるでなかった。
何事もなかったみたいに。あの夜の出来事は俺の見た夢だったのかとさえ思った。
でもそんなはずはない。俺も酔っていたけれど、記憶をなくすほど飲んじゃいない。
触れあった唇の感触を覚えてる。忘れられないでいる。
それくらい俺にとっては衝撃的な出来事だった。
何せ、人生で初めてしたキスだったから――。

 

ミーティングルームでメビウス1はわざとノロノロと動き、全員が退室するのを待っていた。
最後の一人が出ていって、ため息をひとつ吐く。
この部屋で次の作戦に対する会議が行われたところだった。関係する人間が集まっていたから当然スカイアイもメンバーの中にいた。しかし会議中に私語はできないし、メビウス1はつとめてスカイアイを視界に入れないように振る舞っていた。場所もなるべく離れたところに座った。
スカイアイからの視線はたまに感じたが、メビウス1にはどうしようもない。スカイアイとどう接すればいいのかわからなくなってしまったのだ。
彼を前にすると、真っ赤になって緊張して、みっともないくらいどもって、何を話しているのかわからなくなる。
スカイアイは何事もなかったかのようにしているのだから、彼の望みはそうなのだろうと予想がつく。無かったことにしたいのだ。いや、彼にしてみれば大袈裟にとらえる程のことじゃないんだ。
だから自分もそうするべきだと思うのに、うまくいかなかった。
あの夜のことやスカイアイとの関係を思い悩んでよく眠れない日々が続いた。
かといって今までのようにスカイアイの部屋で寝させてもらうわけにもいかなくて、こうして人のいなくなったミーティングルームでこっそり仮眠を取っている。
パイプ椅子を三つ横に並べてその上に寝転ぶ。固くて狭くて寝心地は良くないが贅沢はいってられない。少しでも寝て、次の作戦に支障をきたさないようにしておかなければならない。
幸い眠気はすぐに訪れた。
メビウス1はひとつ欠伸をすると、自分の腕を枕に眠りの淵へと落ちていった。

少し肌寒くなって、深い眠りから意識がほんの僅かに浮上した。
やっぱりこんな場所で寝るのは不味かったかなと、うっすら思った。
まだ眠い。
起き上がれない。意識は泥の中をもがいているみたいだった。
「こんな……ねて……」
人の気配がして、誰かの声が遠くから聞こえた。
髪を柔らかく撫でられる感触。
目は開けられなかったが直感的に「スカイアイだ」と感じた。こんな触り方をするのは彼しかいない。
どうしてこんなに優しく触れるのだろう。大切なものに触れるみたいに。
その答えを知りたくて、でも知りたくない。矛盾しているけれど、どちらも本当の気持ちだった。

そして再び眠りに落ちたメビウス1が目を覚ました時には、辺りが真っ暗になっていた。
周囲には誰もいない。
起こした身体から、薄手のブランケットがするりと床に滑り落ちた。

 

作戦は成功して、仲間はまた飲めや歌えのどんちゃん騒ぎだ。
メビウス1はそんな仲間たちの輪から外れてすみっこで、一人静かに眺めるのが常だった。仲間たちもメビウス1の性格をよく理解して放っておいてくれた。
放っておいてくれないのはスカイアイくらいのものだったが、今回はスカイアイも他の人と楽しげに談笑している。それはそうだろう。ここのところずっとスカイアイを避け続けていたのはメビウス1の方だ。スカイアイと話す機会もめっきり減った。
スカイアイとメビウス1は管制官とパイロット。働く部隊が違い、仕事の外では顔も知らないなんてのはよくあることだった。そもそも一緒にいたことが不自然だったのかもしれない。
メビウス1はため息を苦いビールと共に飲み下し、兵舎の外へ出た。
騒々しかった人の声が遠くなる。賑やかな場所が苦手なのは昔からだ。でもその本質は、騒がしいのが嫌いだからではなくて、どうやってもあの楽しげな輪の中には入れない自分をくっきりと意識してしまうからなのかもしれなかった。
夜になるとさすがに少し肌寒い。だが、メビウス1は寒いのが嫌いじゃなかった。冷たい風が、頭の中をスッキリさせる気がする。
「メビウス1」
背後からの声に心臓が止まりそうになった。
ただ驚いたからではなくて、その声があまりにも聞きなれたものだったからだ。振り返りたくないけれど、そうもいかないのだろう。
メビウス1は内心の動揺を押し隠して振り返った。
「スカイアイ……」
「君が出ていくのが見えたから。……外は涼しいな」
火照った身体を冷ますためか、スカイアイがシャツのボタンをひとつ外した。風が吹いてシャツの襟がはためく。覗くスカイアイの胸元に、メビウス1はひどく喉の乾きを覚えた。
スカイアイはしばらく黙って風をうけながら遠くに見える滑走路の進入灯を眺めていた。
スカイアイのことを避けていたのは彼も気づいているはずで、だから非常に居心地が悪い。何を言うべきかわからず、ただ沈黙するしかなかった。
そんな気まずい空気を破って言葉を発したのはスカイアイの方だった。
「ミーティングルームで寝るのは感心しないな」
「あ……。あれ、やっぱりあなただったんだ」
メビウス1の身体に掛けられていたブランケット。
「君が最近ミーティングルームで仮眠を取っていたのは気づいてた。様子を見に戻ったら、寝ながらくしゃみをしていたから……」
スカイアイがクスリと思い出し笑いをした。寝ている間のことは自分ではわからない。何か変だったのだろうかと恥ずかしくなる。
「ごめんなさい……」
「いや……、君がちゃんと眠れているなら、それでいいんだ」
再び言葉が途切れ、沈黙が訪れる。
やっぱりスカイアイもどこかぎこちない。二人の間に見えない糸がピンと張ったような緊張感がある。だけど、それがなんとなく嬉しい。意識していたのが自分だけじゃないのだと思えるから。
二人して黙っていると、遠くで騒ぐ仲間たちの声がよく聞こえた。
部隊の中には楽器が得意な奴もいて、ピアノやギターが弾ける仲間とセッションをして、いつもパーティーを盛り上げている。
最初はノリのいい楽しい曲が多く、皆で歌ったり踊ったりする。後半は静かなジャズやバラードになる。
今は皆が出来上がってきたのだろうか、静かな曲が奏でられ始めた。甘くしっとりとしたピアノの旋律。二人の間を流れる気まずい空気が、少し和む。
「この曲……」
スカイアイがふと、顔を上げた。
「知っているの?」
「ああ。むかし、まだ学生の頃にこの曲で踊ったことがある。なつかしいな……」
「踊る?」
メビウス1には馴染みのない単語すぎて思わず聞き返してしまった。
「パーティーとかプロムで、さ」
「プロムって何?」
「学校の卒業前に開かれるダンスパーティーのことだよ。君は踊ったり……は、しなさそうだな」
スカイアイは小さく笑った。答える前に正解を言い当てられてしまったメビウス1は少し唇を尖らせた。スカイアイに馬鹿にする意図がないのはわかっているが、なんとなく面白くない。
ダンスなんて縁のない人生だった。
育ってきた文化の違いなのか、それとも性格が真逆を向いているのか。
こんな時、スカイアイとは住む世界が違うのだと思い知らされる。自分とは何もかもが違う。
ため息を吐いた。
「……踊ろうか」
「え?」
「一緒に」
スカイアイが右手を差し出す。
言われた意味がよく理解できなくて、ただ呆然とスカイアイの手を見つめた。
「え……ええ? 踊るって……今、ここで?」
「嫌かな?」
「イヤっていうか……、俺、踊ったことなんてないし、それに……」
「大丈夫だよ、曲に合わせて揺れるだけだ。何も難しいことはない」
男同士だけど、というメビウス1のセリフは捕まれた手に引かれて消えた。
スカイアイが、引いたメビウス1の手を肩の辺りへ持っていく。ここを掴めということだろうか。おずおずと、躊躇いながらそれでもメビウス1はスカイアイの肩に手を乗せた。
そしてスカイアイはメビウス1の腰を軽く引き寄せた。
吐息もかかりそうなほどの距離に、胸の鼓動が途端に騒がしくなる。足がよろめく。
「……っ」
スカイアイが息を詰めた。
「あっ、ごめん!」
動揺してスカイアイの足を思い切り踏んづけてしまった。あわてて足を退かす。
「足はそんなに動かさなくていい。ゆっくり、波に揺られるみたいに身体を揺らすんだ。……簡単だろう?」
スカイアイに呼吸を合わせて同じリズムで身体の重心をずらす。ステップを踏むわけじゃなければ、ダンスの経験がない自分にもできそうだ。
ただ、スカイアイとの距離が近すぎる。繋いだ手が温かいとか。胸の鼓動が聞こえそうだとか。少し顔を上げたら、すぐそこにスカイアイの顔があるだとか。
こんなところ、誰かに見られたらどうするんだろう。でも、たとえ誰かに見られてからかわれたりしたとしても、スカイアイが無様に焦っている姿なんて想像できない。きっと、上手く相手を言いくるめるに違いない。
スカイアイはこちらを見下ろして柔らかく笑う。その瞳が優しくて、恥ずかしさも忘れてメビウス1はぼうっと見つめた。
たまに彼はこんな表情をする。まるで「愛しい」と言っているみたいな顔でメビウス1を見る。もしかしたらスカイアイは自分のことが好きなのかもしれない。
そんなはずはないと理性は即座に否定するが、こうしてスカイアイに見つめられていると、それもスルスルと萎んでいく。
だけどスカイアイは何も言わない。肝心な言葉は何も――。
「スカイアイ……」
「ん?」
スカイアイから何かを引き出したくて声をかけた。
でも、なんて言えばいいのだろう。
スカイアイの瞳は相変わらず優しく、隙間なくくっついた身体は温かい。
男同士でチークダンスを踊ろうと誘ってくるスカイアイは変だ。そしてそれを拒めない自分も。
ゆらゆら、ゆらゆら。
暗い地面に伸びた二人の影が、ピタリと重なって揺れている。
「メビウス1?」
スカイアイが続きを促して、メビウス1は深く息を吸った。スカイアイの甘い香りが胸をいっぱいに満たす。
「……なんでもない」
結局、何も言えなかった。
言いたいことも、聞きたいこともたくさんあったけれど、何を言っても今のこの優しい時間を壊してしまいそうで、言えなかった。