1.
「もう、明日から来なくていいから」
そっけなく言われ、メビウス1は左胸を手で押さえた。
もう何度目だろう。この言葉を聞くのは。
メビウス1の中に「やっぱり」という悟りにも似た、あきらめの感情が浮かんだ。
少し腹の出た中年の男は、この飲食店の店主だ。やれやれとため息をついて、メビウス1の存在などなかったかのように裏口から店に戻っていく。やっとやっかい払いができたと喜んでいる風にもみえた。けれども、メビウス1にはそれを「ひどい」と罵ることはできなかった。
油の匂いと生ゴミの据えた匂い。裏口にあるゴミ置き場に、皿の破片を新聞紙に包んで捨てた。
何枚、割ったか。何回、捨てに来たか。
あの腹の出た店主は、かなり我慢してくれていた。
注文を間違えたり、皿を割ったり。 その度にひどく怒鳴られたが、最後の方は怒鳴ることもなくなった。叱られるより、バカにされるより、それが何よりも堪えた。
軍を辞めて、基地を出てきたメビウス1に、行くあてなどなかった。
家はない。ノースポイントの実家はユリシーズの災厄で壊れたから手放していた。軍に入れば住むところは確保してもらえるから、これまで住居について、いちいち考えずにすんでいただけだ。けれども、今後はそういうわけにはいかない。住む場所が必要で、仕事を探さなければならなかった。
一年間、軍で働いた金があるにはあるが、この宿無し生活がいつまで続くのかわからない以上、無駄遣いはできない。アルバイトでも何でもいいから仕事を探した。しかし、雇ってもらえても、この有り様だ。どこも長続きはしなかった。ひどいときは一日でクビになったこともある。この店は、わりともった方だった。
店の従業員用の乱雑な荷物置き場から、自分のリュックを持ち出す。店は一番忙しくなる時間だ。誰にも気づかれない。ジャケットを羽織り、裏口からそっと出ていく。
店の表通りに出ると、帰宅する人たちが足早に通りすぎていった。
地上のビルの影に太陽が隠れて、辺りは薄い紫色に染まっている。家々に灯りがともる。オレンジ色の灯りをみていると、無性に温かそうにみえる。
家がある人はいい――どんなに落ち込んでも、温かく迎えてくれる人がいたら、きっと元気になれる。
メビウス1にも、そういう人がいた。
軍にいたとき、スカイアイがいつも話を聞いてくれて、慰めてくれた。それがどれだけ恵まれていたことなのかを痛切に感じる。
宿をとっているホテルに向かう。冷たい風が通り抜けて、ジャケットの前を手でかき合わせた。
こんなとき、無性に彼の声が聞きたくなる。
スカイアイの連絡先は知っていた。別れるとき、スカイアイは自分の電話番号を書いた紙をメビウス1に握らせた。
「なにか、困ったことがあったら連絡しろ」と言って。
かわりにメビウス1の電話番号を教えようとしたら断られた。なぜか尋ねたら、
「聞けば必ず電話してしまうから」と答えた。
「電話番号なんか聞いてしまったら、毎日、君の声が聞きたくなる。そして、声を聞いてしまったら……必ず、会いたくなる」
だから聞かないのだと。
――ずいぶんひどい言いぐさだ。
自分は我慢できないけど、俺には教えておくなんて。
メビウス1は内心でスカイアイをなじった。おかげでいつも、電話をしようか、やっぱりやめようかと逡巡しなくてはならなくなった。
「困ったことがあったら」とは、逆に言えば「困ったことがない限り連絡してくるな」ともとれる。だから“困ったこと”の定義を考える。
“寂しさ”は、“困ったこと”に入るのだろうか。
ジャケットの左胸のポケットから、小さく折りたたまれた紙を取り出す。何度も開いては畳んでを繰り返して、少しよれたメモ用紙。そこに書かれた数列。
もはや、こんな紙には意味がない。だって、何度も見ている内に覚えてしまったのだから。それをまた丁寧に折りたたんで胸ポケットにしまい、上から手で押さえた。そうすると、なんだか胸が温かいような気がする。冷たい風からも守られているような、そんな気がするのだ。
周りを歩く人は皆、下を向いて、首を縮めた亀みたいだった。このところ一段と冷え込み、寒くなった。
冷たい空気を吸ったせいで、肺がつまったように感じて咳き込んだ。
荒くなった息を整えていると、鼻先に嗅いだ覚えのある匂いがした。
このビルの立ち並ぶ都会の中で、深い森林に迷いこんだかのような香り。
ハッとして、メビウス1は顔を上げた。辺りを見回す。通りすぎる人々に見知った影を探す。そこに、人より少し背の高い男の後ろ姿を見つけた。
グレーのトレンチコート。すっきりと切り揃えられた髪。長い足――。
「あ……!」
メビウス1は考える間もなく動いていた。その男を見失わないように走り出す。人の間を縫うように進む。途中で体格のよい男にぶつかり、たたらを踏む。じろりと睨み付ける男に、すみませんと謝って再び走り出そうとした。しかし、さっきの背の高いトレンチコートがいない。右にも、左にも。
あの森林の匂いも風にかき消されて、どこへ行ったかわからない。
メビウス1は横にわかれた細い路地に入って男を探した。
確かにその姿を見た気がしたのに。
あきらめられず、他の道も探してみた。
こんなところに、スカイアイがいるわけがない。
理性ではわかっている。彼は今でも基地にいて、仕事をしているはずだ。きっと、忙しく。
あちこち歩き回って足がだるくなってしまった。この寒空の中、自分は一体なにをやっているのか。いるはずのない人をくまなく探している自分の行動が滑稽で、どっと疲れが襲う。
「バカみたいだ……」
メビウス1は辺りが真っ暗になって、ようやく帰路についた。