少年と、空を飛ぶしか能のない男

青空とソフトクリームのような雲。
どこまでも緑におおわれた大地を、複葉機が低く飛ぶ。黄色の二枚の羽を持つその小型機は、地上すれすれを大きく旋回し、高度を上げるとくるりと宙返りした。
僕は大きく息を吸い込んだ。
「こらー!遊ぶなー!」
その声が届いたか、黄色の羽は水平飛行に戻り、地上へと優雅に舞い戻った。

黄色の飛行機から降り立ったのは、白っぽい髪に小柄な体の男。年は僕よりは年上で二十歳くらいだろうか。童顔でちょっと頼りない感じがする。
1ヶ月くらい前にじいちゃんが、この農薬散布の複葉機の操縦士として雇った。
「あんた、また遊んでただろ。いーかげんにしろよ。燃料だって馬鹿にならないんだからな!」
僕がぷりぷり怒っても、そいつは「ごめんね」と眉を下げて笑うだけ。言い返してきたこともない。なのに同じことを何度も繰り返す。
――正直、馬鹿なんじゃないかと思っている。
じいちゃんが「仕事が終われば、好きに飛んでいい」と許可を出したことも、燃料代は給料から天引きされているのも知っている。決して多くないはずの給料から燃料代を引かれれば、取り分はもっと少なくなる。それをわかっていて飛ぶんだから、“馬鹿だ”と思うのだ。
「住み込みで働かせてもらえているだけで、ありがたいと思ってるよ」
そうこの男は言う。
僕が気に入らないのは、この男の素性がわからないところにもあった。突然現れて「働かせて下さい」ときたんだ。確かにちょうど前任の操縦士が辞めたばかりで代わりが欲しかったとは言え、リュック一つ背負い突然現れたこの男は、家出少年かと思った。
じいちゃんに、なんであんなやつを雇ったんだと聞いた。僕は反対だった。きっと何か厄介ごとを抱えているに決まっているって。そしたらじいちゃんは「このご時世、何も抱えてないやつなどおらん」って、そう言った。
じいちゃんの言うことがわからないではないけれど、これでこいつがものの役に立つならまだしも、飛行機の操縦以外は何をやらせてもダメだった。
野菜の見分けも出来ないし、飛行機の操縦は上手いからトラクターなら操縦出来るかとやらせてみたが、まっすぐ進めないときた。
僕は頭を抱えた。
そいつは失敗する度に「ごめんね」と殊勝に謝る。真面目にやろうとしているのはわかるが、教えるこちらの身にもなってくれと言いたい。
僕はあの飛ぶしか能のない馬鹿を怒鳴りつけるのが日常になってしまった。
――僕のせいじゃない。きっと。

「まったく、このアグキャットも古いんだから、乱暴に扱うなよ。壊れたら弁償してもらうからな」
帰ってきた複葉機を整備しながら、隣にいる男にグチる。
「うん。とても大事に使っているよね。わかるよ」
その男は優しく機体を撫でた。愛しいものを見るような眼に、僕の方がドキリとしてしまう。
色々とこき下ろしたが、この男の飛行機と空への愛は本物だった。空を鳥のように自在に飛ぶ黄色の羽を見て、何度目を奪われたかしれない。もしかして、曲技飛行のパイロットだったりしたのかなと想像した。
だとしたら、何故辞めたのか。何故こんなところで未練がましく飛行機に乗っているのか。わからないことばかりだった。

ある日、うちに妙な客が来た。
こんな畑ばかりの田舎に、スーツを着た男が二人。
最初はじいちゃんに用かと思ったんだけど、あの白い頭のあいつを訪ねてきたんだ。
僕はあいつの素性が少しでもわかるかも、と彼らが話しているところにそうっと近づいて、物陰に隠れた。
「探しました」
スーツ姿の男が言う。
あいつは何も言葉を発しない。僕は唾を飲み込んだ。
「何の、用ですか」
「お分かりのはずです」
「……」
「今の情勢についてはあなたもご存じのはず。詳しいことはここでは申せませんが、現状は報道されているよりずっと深刻です。……あなたの力が必要なのです」
僕の頭には、はてなが沢山浮かんだ。情勢?報道?……力?
この飛ぶしか能のない男に、いったい何の力があるって?
しかも、ずいぶんと低姿勢だ。ただの家出少年と思っていたが、実は良いとこのお坊っちゃんだったのか?
「俺は、まだ……」
あいつは首を振った。
「あなたが作り上げた平和が、再び壊されようとしているのですよ。あなたはそれでもいいのですか」
冷静だったスーツの男の声が少し高まった。それをもう一人の男が、腕を掴んで制止した。
「……っ、すみません」
冷静さを欠いたことを恥じるようにスーツの男はうつむいた。
「今回はこれで失礼します。よく、お考えください」
あいつは二人が去った後もじっと空を見て、長い間動かなかった。

あれから僕は混乱していた。ただの家出少年(少年ではない)だと思っていたが、どうやら違うみたいだし、こいつには何かすごい力があるらしい。とてもそうは見えないが。
平和を守るとか、正義のヒーローじゃあるまいし、規模がでかすぎる。つい最近までこの大陸は戦争をしていて、平和には程遠かった。僕のいるこの街は、幸運なことに戦争に巻き込まれずにすんだけど。
そういえば、戦争を終結させたのは一人の戦闘機パイロットだとの噂だ。
確か“メビウス1”とかいう。
噂は噂に過ぎず、僕は信じていなかった。
たった一人で何が出来るっていうんだ。僕のような子供でもそれくらいの頭は働く。
皆、戦争が終わって浮かれているんだろう。
でも、まだ各地で残存兵が抵抗していると聞く。「自由エルジア」とかいうやつらだ。ニュースではその話題ばかりだ。一体いつになれば平和になるのかと、大人たちはグチっているが、僕にとっては今までもこれからも平和で代わり映えのない毎日だ。じいちゃんとこの畑で働く日々は退屈と言えば退屈だけど、戦争に巻き込まれることを考えたらずっとましだった。

夜、夕食の後片付けを男としていた時、僕は思いきって聞いてみることにした。
「ねぇ、あんた一体何者なの?」
そいつは洗っていた皿を落として割った。
「ちょっと!何してんだよ!」
「ご、ごめん」
「もう、いいよ。ここは僕が片付けるから。あんたはテーブルを拭いて」
布巾を投げつける。言われた通りテーブルを拭き始めるあいつに、ため息をつく。動揺するってことは、聞かれるとまずいことだとバレバレだ。
「で、あんたは自分の正体を言う気はないの?」
「……ごめん」
僕はテーブルを両手で叩いた。
「ごめんは聞きあきた!ごまかすにしても、もっとうまく出来ないの?大人のクセに」
イライラしてついイヤミを言ってしまった。でも、僕は悪くない。煮え切らないこいつが悪いのだ。
そいつは駄々をこねる子供をどう扱えばいいかわからないといった風に困り顔で「言えないんだ」と呟いた。
「言えない?」
そいつはうなずく。
「言ってはいけないって、約束をしているんだ」
「約束?……誰と?」
「それは……」
その時、大きな爆発音がして、家がビリビリと振動した。
「なっ……!?」
大きな飛行機が飛ぶときのエンジン音が上空を通過する。それと共に落雷かと思うような轟音も。
思わず耳をふさいだ。
何かただならぬことが起こっているのはわかるが、大きな音に足がすくんで身動きが出来ない。
目の前の男は天井を見上げ、目付きを鋭くした。いつもの凡庸さはどこへいったのか、すごく怖い顔をしていて、別人を見ているようだった。
「ここにいて」
そう言って外へ出ていく。
「ま、待ってよ!」
一人になるのが恐ろしく、男の後を追いかけた。
外へ出た男の背中越しに、おずおずと周りを見渡す。
緑の畑のただ中に、炎が燃えている。巨大な飛行機が墜落したのか腹から折れ曲がり、激しく燃え盛っている。
また轟音がして、上空を見上げると、空を高速で飛ぶ何かが複数。
あれは、戦闘機じゃないのか。
何故、こんな田舎に戦闘機が?
それらは追いつ追われつ、まるで遊んでいるかのように見えた。だが、そんなはずもない。一機が火を吹いてこちらへと迫って来る。
頭を抱えて目をつぶる。男が僕の体を覆うようにして抱え込んだ。
大きな爆発音と衝撃。
それは家のすぐそばの倉庫に墜落した。
「ああっ……!」
あそこではじいちゃんが、まだ仕事をしているはず。
「じいちゃんが、じいちゃん」
うわ言のように呟きながら駆け出そうとするのを男が止めた。
「君はここにいて。俺が見てくるから」
「でも!」
「ここにいるんだ!」
初めて男が声を荒げたのを聞いた。体を震わせて、僕は動けなくなった。涙が勝手に頬を伝う。
「危険だから。出来れば地下に潜っているんだ。いいね」
うなずいた僕を置いて、男は倉庫に走っていく。震える足をなんとか動かして、言われた通りに地下室に向かう。上空では時折轟音がする。
これは戦争なのか、また戦争が始まるのか、何故こんな田舎を巻き込むのか、じいちゃんは無事なのか。じいちゃんがいなくなれば、僕は一人になってしまう。
僕は混乱のなか、ただ震えてあの男の帰りを待っているしか出来なかった。

次の日の朝、明るくなった外はひどい有り様だった。畑のただ中に落ちた飛行機、戦闘機が突っ込んだ倉庫。すすけた臭い。他にも何かが落ちた穴や、炎上した後があちこちにあった。
これからうちはどうなるんだろう。漠然とした不安が襲ってきた。
……結果的に言うと、じいちゃんは生きていた。
男が走っていってから、どれだけの時間が過ぎたのかわからない。外が静かになって、地下室の扉が開かれ、一階に上がるとじいちゃんとあいつがいて、僕はじいちゃんにしがみついてわんわん泣いた。多少怪我はしていたが、じいちゃんは無事だった。
それだけが幸運と言えることだった。
僕の隣に、あの男が立っている。燃えてしまった畑を悲しげに見つめて。
「どうしてこんなことが起こったのか、あんたにはわかるの?」
僕が聞けば男はうなずいた。
「戦争が……また始まるの?」
「いいや、それはないよ」
男が僕の頭を撫でて、微笑んだ。初めて子供扱いを受けた気がする。けれども、嫌な気にはならなかった。
「どうして?」
僕が聞いても男は何も答えず空を見ていた。空に何かあるのかと、そちらを見てもただ青空が広がるばかり。
「来た」
男が呟いた。
きた?何がきたのか、と周りを見わたしてみるが何も見えない。
「なに?なにが来たの?」
また恐ろしい何かが来るのかと、不安になって男の袖を引く。
男はこちらを向いて安心させるように微笑んだ。
「短い間だったけど、色々教えてくれてありがとう」
「え、どうしたの急に」
別れの言葉みたいじゃないか。
「畑はなるべく元通りになるように、頼んでみるよ。だから心配しないで」
どういうことなのかと聞こうとしたら、上空から音がして、風が巻き起こった。
一機の迷彩色のヘリコプターが上空を飛んでいる。
「な、何!?」
「迎えを頼んだんだ」
「む、迎え?」
ヘリは近くの農業機用の滑走路に着陸した。男がそちらへ向かう。
「待ってよ!」
袖を引いて止める。
「行っちゃうの?」
男がうなずく。
ああ、この人は戦いに行くのだ。だって、この人の目が意志を持って輝いている。
この人は戻りたくなさそうだった。それなのに戻ると決めたのなら、それは僕のためだ。じいちゃんのためでもあり、この畑のためでもある。
「……死なないよね」
僕が呟いた言葉は、プロペラの音にかき消されそうになったけれど、彼の耳に正確に届いたらしい。死なないよ、と確信に満ちた言葉をくれた。
「だって俺はヒーローだからね」と夏の空を思わせる顔で笑った。

ニュースでやっていた、自由エルジアという残党は壊滅したらしい。世間ではメビウス1がやってくれたとか、色々言われてる。
――あの人は、メビウス1だったのかな。僕にはわからないけど。でもそんなこと、どうだっていいんだ。
小柄で頼りなくて、野菜の見分けも出来ないどうしようもない男だった。けれども、僕のために戦うことを決めた男。誰より美しく空を飛ぶあの人こそが、僕にとってはヒーローで、英雄だった。