アンドロイドは花の夢をみるか - 2/4

2.

目が覚めたのはベッドの上だった。
「ご気分はいかがですか、マスター」
メビウス1がかたわらに座っていた。
問われて、自分が倒れたことを思い出した。身体に意識を向ける。
「ああ……。悪くない」
「そうですか。よかったです」
メビウス1は目を和らげて、どこかほっとしたような顔をした。
ゆっくり寝台に手をついて身体を起こす。あのとき感じた強烈なめまいは、もうしなかった。
「メビウス1」
「はい」
「俺が、倒れたとき……」
メビウス1は首をかしげた。待てをする忠実な犬のようにじっと俺の言葉の続きを待っている。
「いや……、なんでもない」
俺はとっさにごまかした。なんとなく聞くのが怖い。
そこそこ長い時間、気を失っていたらしい。時刻はすでに夕方になっていた。
メビウス1は夕食の準備をし始めた。といっても彼はアンドロイドで食事を必要としないから俺の分だけだ。
リビングにバターの焦げる香りがする。
そうだ、俺は食事をしている。機械であるはずがないじゃないか。なぜ、あんなことを思いついたのだろう。
馬鹿馬鹿しくなって俺はひとり、喉の奥で笑った。

俺は退役軍人だ。あの友人と同じ軍で働いていた。そして退役した後、軍にいた経験を書き残そうと現在は執筆活動をしている。
書斎に入る。部屋は薄暗く、両脇には背丈ほどもある本棚で埋まっていた。古い紙の放つ独特な匂い。俺はこの匂いが嫌いではない。心身が落ち着く香りだった。
本棚の一冊を手に取る。自分が過去に書いて出版した書籍だった。表紙を眺める。
しかし、その本の著者名は自分ではなかった。
おかしい。この棚に置いておいたと思ったが、間違えたのだろうか。隣の本を見る。それも違う。他人の名前が書かれている。他の棚も、あちこち本を引き出しては確認する。しかし、自分の名前が入った本はどこにも見当たらなかった。
どういうことだ。俺の書いた本はどこへ? いや、そもそも、どんな内容の本だった? 軍に関係するものだったはずだ。
俺は軍で何をしていた? ――思い出せない。どんな部署にいたのか、どんな戦いをしていたのか、まるで記憶にない。あの憎たらしい友人と、そこで知り合ったはずだ。どんな会話をしてヤツと知り合った? どうして友人になった? 必死に思い出そうとして、記憶の糸を辿るが、糸の先には何もない。ただ空虚な無が広がるだけ。
これはなんだ。俺は頭がおかしくなってしまったのか。
得体の知れない恐怖が足元からじわじわと侵食してくる。なぜかこの家で過ごし出す前のことが思い出せない。歴史上の人物のように“こうだった”という情報はあれど、具体的な記憶や思い出が何一つないのだ。なぜ、これまでひとつも疑問に思わずに生活していたのだろう。
冷たい汗が脇を濡らす。キーンと頭に音が響く。耳鳴り。三半規管がおかしくなって、ぐらぐらと身体が傾いだ。
ああ、まただ……。
めまいに目を固く閉じる。
「マスター、食事ができました。……マスター? 大丈夫ですか?」
「あ、ああ……」
メビウス1が書斎に呼びに来てくれて、なんとか意識を切り替えられた。
「顔色がよくないです。食事はやめておきますか」
「大丈夫だ。食べるよ」
頭を振り、息を吐く。気分は悪かったが、今は食事をしなければならなかった。確かめるのだ――なんとしても。
ダイニングに向かう。
テーブルには鮭のムニエルが一皿、置かれていた。添えられたレモンの黄色が目に鮮やかで、うまそうだった。
テーブルにつき、ナイフとフォークを手に取る。向かいにはメビウス1が食事はしないけれど座っている。やはり、ひとりで食事をするのは味気ない。彼と会話を楽しみながら食事を取るのが常だった。
鮭を一口大にカットして、口に運ぶ。
「あ……っ、マスター?」
メビウス1が少し驚いたように目を見開く。
口に入れた鮭の身はホロリと崩れて、バターの香りとレモンの酸味が鼻に抜ける。
うまい。掛け値なしにそう思う。
なんだ、ちゃんと食事ができるじゃないか。
ほっと胸を撫で下ろした。
機械だなんてただの思い過ごし。馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
いろいろと思い出せないのは、このところ体調が悪いせいだ。
きっと、そうだ。そうに決まっている。
鮭をゴクリと飲み込んだ。
「マスター!」
メビウス1が椅子をはね飛ばす勢いで立ち上がる。
それに何事だと注意をはらう前に、自分の喉の奥に違和感を感じた。
「うっ……ぐ」
手で口を覆う。突き上げてくる猛烈な吐き気。
「スカイアイ、すぐに吐いてください! 吐き出して!」
我慢できず、立ち上がり、キッチンの流し台に頭を突っ込む。さっき飲みこんだ鮭を、思い切り吐き出していた。少量しか口に入れていないのに、まるで毒でも飲んだかのようなこの拒否反応はなんだ。
激しく咳きこみ、えずく。
メビウス1が背中をさすった。
「どうして急に、本当に口に入れたりしたんですか? 俺たちには固形物を消化する機能なんかないのに……」
「俺、たち……?」
俺は絶望を感じて、メビウス1を振り返った。いつものとおり無表情なその姿は、これまで見ていた彼とはどこか違って見えた。
メビウス1はゆっくりと口を開く。
「もう、黙っていても仕方がないですね。……気づいてしまったんでしょう? あなたが、何者か――」