「メビウス1、お疲れ様です!」
俺と同じ年くらいの青年が、作業の手を止め声をかけてきた。夕焼けに染まるハンガーには、整備士が数名仕事をしていて、俺に気づいた人たちが口々に挨拶を投げかけてくる。それに軽く手を上げて応え、自分の機体に近づく。
最初に声を上げた若い整備士が、気をきかせて尋ねてきた。
「整備班長、呼んできましょうか」
「いや、大丈夫」
俺が首を横に振ると、彼は頭を下げて自分の仕事に戻っていった。
仕事をする彼らの邪魔にならないよう、隅にある簡易椅子に座る。
何をするでもない。機体を眺めたり、仕事をする整備士を眺めたり、エンジン音を聴いたりする。
何故だかわからないが、昔からこうしていると落ち着く。昔といっても一年ほど前でしかなかったが。……あまりにも色々なことがありすぎて、一年前が遥かな昔に思えてくる。ISAFは負ける寸前まで追い詰められていたのに、もうすぐエルジアの首都に届こうとしている。
一年経って、俺は何か変わっただろうか?
たぶん変わっているのだろうけれど、あまり実感はなかった。それ以上に周囲の変化の方が大きすぎた。
新しい人員も増え“メビウス1”に興味を持つ人間も増えた。同じ年頃の人間に敬語を使われ、尊敬の眼差しで見られる。知らない人間に好奇心で近づかれる。妬まれることもあった。
俺の身辺は、スカイアイや初期からいる部隊の面々が、不審な者が近づかないように守ってくれていた。あまり一人になるな、とも言われている。守ってもらえるのはありがたいが、始終誰かの目があると息がつまる。放っておいて欲しいと思うのは、きっと我が儘なのだろう。
俺は他人に関心を持つことも、他人から関心を寄せられることも苦手だった。
いっそ、己が何も感じない鋼であればよかったのに……。
太陽の緋色に輝くF-22。今は静かに次の出撃を待っている。戦うためだけに生まれてきた彼らがうらやましい。戦闘機に乗り込み空を飛べば、自身が機体と一つになったように感ずる。そこには恐れも不安もなく、ただ戦う高揚だけがあった。
ここへ来ると安心するのは、わずかでも空の上にいるときの気持ちを思い出せるからかもしれない。
「……寝ているのか?」
茜色のハンガーの隅に、椅子の上で膝を抱え、丸くなっているメビウス1を見つけた。
彼を探して欲しいと頼まれ、思い付く場所を廻り、三つ目で当たりを引いた。彼には猫のように気に入りの場所がいくつかあり、行動にも法則性がある。それを踏まえて探せば見つけやすい。
彼が用もないのにハンガーに来るときは、一人になりたいときだ。俺にすら干渉されたくないと思っているのだ。声をかけて起こすべきか迷った末、起きるまで待つことにした。
隣に空いてる簡易椅子を運びこみ、座る。俺も決して暇なわけではないのだが、彼が一人になりたいように、俺にも頭を休める時間があってもいいだろう。
眠るメビウス1を見ていると、一年ほど前の彼の姿がだぶった。
その日も彼はハンガーの隅で存在感を消し、小さい体をもっと小さくしていた。
空の上とは印象がまるで違う。他人を寄せ付けない空気をまとい、それでいてどこか寂しそうだった。放っておけばこのまま空気に溶けていってしまいそうな儚さで、思わず声をかけたのだった――。
「メビウス1、ここで何をしているんだい?」
なるべく怯えさせないように優しく聞いたつもりだったが、彼はびくりと体を震わせ、目を丸くした。何故自分が見えているんだ、とでも言いたげに。
しばらく無言で時が過ぎる。俺は愛想笑いを浮かべ、彼を見つめて辛抱強く返事を待った。
彼が口を開いた。「何も」と。
「何も?……していないのかい?」
子供のようにこっくりとうなずく。
「それはつまり、ええっと、一人になりたかった、ということなのかな」
再びの首肯。
「そうか、それは邪魔をしてしまったな。すまない」
俺がガックリと肩を落とすと、意外にも彼は首を横に振った。
「いえ、大丈夫……です」
受け入れてもらえたことに気をよくして、彼の隣に陣取った。
彼が自分から喋ることはなかったが、質問すれば答えは返ってきた。我々の会話は、第三者が聞けば尋問のように見えたかもしれない。返事は首を振ったり、単語一言だったりした。
彼と会話とも言えない会話を続けている内に、なんとなくだが彼の人となりがつかめてきた。
メビウス1は質問すれば、どんな質問でもきちんと答えてくれる。真面目さと、相手を思いやる心を持っている。
彼は部隊の人間と上手く馴染めていないようだった。初陣からエース級の働きをしたせいだ。自分の腕に自信があるあまり、周囲を見下していい気になっていると思われていた。
他人と距離を置きたい人間は一定数いるだろう。良い悪いではなく、彼の性質なのだろうが、それが誤解を生んでいた。
彼が話さないのは何故か?
今もそうだが、一言二言でしか話さないのには何か理由があるのだろうか。
「……君は話すのが嫌いなのかな」
メビウス1は俺を見て、しかしすぐ目をそらしてうつむいた。
答える気がないのか、それとも聞かれたくないことだったのか。
だが彼の心を開くには、君とコミュニケーションを取りたいのだと示し続ける必要がある。
彼が顔を上げ、おずおずと言葉を紡いだ。
「スカイアイは、どうして俺に話しかけたんですか」
質問に質問を返されるとは思わなかった。メビウス1はもしかすると、俺が信用にたる者か、見極めたいのかもしれない。
質問の答えは決まっている。
「君がね、なんだか寂しそうに見えたからだよ」
メビウス1が小さく息をのんだ。
いつもは閉じぎみの目が大きく開かれ、虹彩がはっきり見える。青灰色の瞳が水を湛えて光を弾く。
その色をじっと見つめていると、彼は少し恥ずかしそうにうつむいて、ポツリと話し出した。
「……俺は、公用語が苦手なんです。以前に、発音が下手だ、と言われたことがあって」
つまり、もともと話下手なうえに、苦手な公用語で話さなければならないから、余計に言葉が重くなった、ということか。
「そんなに下手だとは感じないけどな。気にしすぎじゃないか」
「そう、でしょうか」
彼がうつむいた顔を上げたちょうどその時、傾いた夕日が彼の顔を明るく照らした。
「例えば、君の国の言葉を学んだ人間が、下手ながら一生懸命話しかけてきたとして、君はその人を下手だと馬鹿にするか?」
メビウス1はふるふると頭を振った。
「すごいなって、思います」
「皆、同じだよ。真剣に話す者の言葉を、誰も茶化したりはしない。大切なのは伝えようとする意志だ」
彼は俺の言葉の意味を馴染ませるように黙した後、しっかりとうなずいた。
その後、少しずつ彼の言葉が増えていき、周囲の誤解も徐々に解けていった。彼がハンガーに一人でいることも少なくなり、嬉しく思ったのを覚えている。
「ん……」
メビウス1が身じろぎした。目を覚ましたらしい。顔を上げ、とろんとした目で周りを見る。
青灰の瞳が俺をとらえた。
「え……スカイアイ?」
一瞬ここがどこかわからなくなったのか、もう一度周りを見てここがハンガーであると確認する。
「なんで……?」
隣に座っているのか、と聞きたいのだろう。俺は小さく笑った。
「君を探しに来たついでに、休憩を」
そして懐かしい思い出を追体験していた。あの頃からずいぶん遠くへ来た気がする。彼との関係も……。
メビウス1との出会いは、俺の運命を変えた。
「起こせばよかったのに」
「君、一人になりたいと、いつもここに来るじゃないか。せっかくの時間を邪魔したくなくてね」
メビウス1が大きくため息を吐いて、立てた膝に顔を埋める。
この反応はどういう意味だ?
つい彼の思考を分析しようとしてしまう。あまり話さない彼のことを行動から知ろうとする。一年前からの癖だった。
「スカイアイは俺に甘いよ……」
「甘いといけないか?」
「……いけなくない」
メビウス1の白い顔が、夕日に照らされ朱に染まった。
あの日のように――。